奥三河の花祭-榊様
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東栄町古戸の白山山頂で12月の第2土曜日に行われる白山祭り、人は歩いて40分から50分かけて山に登り、食料等資材は、深山からの木材搬出に使う架線設備(ローブウェイ)とその技術、技術者により、山頂に運ばれる。山頂では、花祭りの原型と言われる舞踏が展開される、毎年、関係者含め観光客や民俗学者等およそ300人ほどで賑わう。正味全3時間ほどを、20分程度に収めてご案内します。研究者の方等で、もう少し長く見たい方は、メールにてテレビ三遠までご相談ください。
「テーホヘ、テホヘ」と、夜を徹して繰り広げられる花祭は、
熊野の山伏や加賀白山の聖によってこの地に伝えられたといわれています。
「冬至」の前後、太陽の力の復活を願って行われる「霜月神楽」の一種とされるこの祭りは、天竜川水系に今も伝わる神事芸能で700年以上にわたって継承されています。
当初は湯立てと清め中心の祭りだったと考えられますが、伊勢神楽や諏訪神楽なども取り入れながら、土地の人たちによって育まれ、約400年ほど前に現在に近い形態になったようです。
そのころは大神楽といって、七日七夜もかけて130番もの舞が盛大に行われ莫大な資金と労力が必要で、金100両、白米100俵が備蓄され、更に不足に備えて神楽林も保有していました。
数地区が一緒になって、7年目や20年目という間隔で行われていましたが、大行事のため七日七夜にわたる大神楽を省略・集大成し一日一夜の祭りとして完成されたのが現在の花祭であるといわれています。
大神楽がなぜ花祭になったのかは多くの人が持つ疑問であり、「花」の語源についても10前後の説があります。
祭りは花宿の清めから始まり、神迎え、湯立て、宮人の舞、青年の舞、稚児の舞、鬼の舞、禰宜や巫女・翁などの神々の祝福、少年の舞、湯で清める湯ばやし、神返しまで休む事なく、ほぼ一昼夜をかけておこなわれます。
八百万の神々を勧請し、諸願成就、厄難除け、生まれ清まりを祈願するこの祭りは、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年11月から3月上旬にかけて、郡内15ヵ所の地区で盛大に開催されます。
最初に登場する鬼で、山を割り、生命の再生を図り、生まれ清まりの重要な役割を担う鬼です。
舞庭中央に据えられた竈に鉞を振り、山を割る所作をします。 |
最も重要視されている鬼で、地区の人達は「榊様」と呼んでいます。
反閇を踏み、大地に新しい生命力や活力を吹き込む鬼です。 又、問答も榊鬼の特徴です。 |
奥三河(おくみかわ)は、旧三河国北東部の山間部の総称である。
新城市(旧南設楽郡)、北設楽郡、豊田市東部(旧東加茂郡)辺りである。
東三河側は、新城市が中心。かつては設楽町が北設楽郡の拠点で県機関も設置されていたが、昭和末期~平成初期の行政改革により旧南設楽郡と共に新城市に拠点が集約された。
かつて加茂郡や設楽郡と呼ばれた地域であり、平安時代から高橋新荘(足助荘)、設楽荘(富永荘)として荘園開発がなされ、境川が境界になっていた。16世紀まで現在の長野県根羽村は信濃国ではなく奥三河加茂郡であった。戦国時代末期、徳川氏の三河家臣団のうち山家三方衆の本拠とした地域である。
花祭(はなまつり)は、愛知県北設楽郡等に伝承される霜月神楽の総称である。重要無形民俗文化財(北設楽郡のみ)。700年以上にわたって継承されている神事芸能で[1]、清めと湯立てのほか、少年の舞、青年の舞、巨大な鬼面を付けた鬼の舞、等が夜通し行われる。
伊勢流神楽(湯立神楽)の流れを汲むとされるが、仏教の修験道、修正会、浄土思想に由来するとも考えられ詳細は不明である。「花祭」の呼称も灌仏会とは無関係で、浄土への転生願望から生まれたものとされるが詳細は不明である。地元の人々は「花祭」を単に「花(はな)」と呼ぶ[2]。明治以降、神仏分離に伴い、仏教色が排除された集落もある。中設楽、河内、間黒、坂宇場地区である。神道形式の「花祭」を「神道花」(しんとうばな)。従来通りの形式ものを「仏花」(ぶつばな)と呼び現在に至る[3]。「てーほへてほへ」の掛け声、「寒い、煙い、眠い」と呼ばれるのが特徴である。
花祭の花とは、かつては穀物の花ともされたが、近年の研究によれば新しい生命を象徴するものであるとされる[4]。
霜月神楽は、よく五穀豊穣、村の安泰を祈る祭であると言われるが神招き-神懸かり-神わざ-神返しという古い神祭の基本にのっとって行われている。祭は穢れ衰えた魂にかわって、新しい強力な魂を呼び込む鎮魂(タマシヅメ)の祭である[5]。
旧暦の11月は神や自然が衰弱する時期であり、魂振の儀式などを行って魂の再生・更新を行って新年に備えるために神楽が行われた。その際に熊野の再生儀式であった湯の清まりと忌籠の呪法が取り入れられてそれが湯立として残ったとされている。
祭りの次第は村によって異なり、祭場の決定はさまざまで、民家を交代で選定するもの、同一の家に定めてあるもの、神社を充てるものもある。近年では公民館や神社での開催が増えている。 花祭の行われる場所は「花宿」と呼ばれ、祭の期間中神々が降臨すると考えられている。 「花宿」は神聖な場所とされ結界として、また神々の依り代として様々な切り紙「草」が飾られる。 花祭に与る者は一般に「舞子」と呼ばれるが、「宮人(みょうど)」と称する、一種祭祀団の形式を多分に有し、禰宜にあたる花太夫(はなだゆう)が統率する。 かつて「花祭」は男の祭りで女性は禁忌され見ているだけであったが、近年は少子化・過疎化のあおりを受け女性も参加している。
花祭は約10日間にわたり、初めは準備で、当日はまず神下しの式が行なわれ、ついで舞踊、最後に神上げで終る。 舞踊は少青年の与るものと、神々の出現を意味する、すなわち神に扮装するものとがあり、後者は仮面を付ける。 最初に楽器その他の祭具を祝福する舞があり、ついで各種の舞があるが、曲目は楽(太鼓)の舞、笛の舞、撥の舞からはじまり、地固め、市の舞、花の舞、三ツ舞、四ツ舞、湯囃しの舞などであり、地固めの舞以下すべては少青年の与るものであり、執物によって1つの舞がさらに2、3の舞に分かれ、だいたいにおいて年齢によって定められる。 神の出現を意味するものは「山見」、「榊」と称する2つの鬼が中心であり、べつに「お判」と称する眷属が多く出る。 ほかに巫女、翁、禰宜などもあり、舞踊の曲目はだいたい15、6種で、前夜から翌朝まで祭場の中央に大釜を焚き、その周囲で休みなく続けられる。 少青年の舞はいずれも花模様のある上衣に、同じ模様のたっつけをつけ、鬼は槌または鉞を持ち、その仮面は天地1尺以上、1尺5、6寸にも及ぶ巨大なものである。 それらが焚火を囲み、笛、太鼓による囃子に判れて乱舞するさまは真に壮観であり、それに見物の男女が入り乱れ熱狂して冬の夜を明かすという。
昭和56年当時の北設楽花祭保存会長・原田嘉美は、こう述べている「舞ってみなけりゃ 花祭(はな)の良さはわかんね、気分が大事だもんな。昔っからそうだっつ。」。 現地の花祭愛好者は祭の学術的な解釈や仕来たりなどを気にせず、単純に踊るのが楽しいからやっているだけだと言うのである。 村の祭り好きの人たちに自然と伝わる所作、口伝が伝統であり最も重要なこととも述べている。 十数時間、踊り続けることで陶酔感を得られることが、この祭が伝承されてきた鍵である。 そして、学究肌の人に花祭を体系的な知識で探求してもらい、発展伝承の手助けをしてもらいたいとも述べている。[6]
- 楽の舞
- 市の舞(青年1名)
- 地固めの舞(13〜18才、3〜4名)
- 花の舞(稚児舞、6〜12才、3〜4名)
- やまみの舞(鬼面)
- 三ツ舞(13〜18才、3名)
- さかきの舞(鬼面)
- ひのねぎ・みこの舞(男面・女面)
- おきなの舞(老人面)
- 四ツ舞(20〜26才、4名)
- 湯ばやしの舞(17〜18才、4名)
- 朝おにの舞(鬼面)
- 獅子舞
- その他、鈴の舞、笛の舞い、しきさんば、みかぐら、順の舞、舞上げ、舞おろし、二挺鉾、の内の幾つかを行う地区がある。
愛知県北設楽郡東栄町御園の花祭、ここに限らずどこでもさうですが、
2番目に出てくるのは榊鬼です。
御園の榊鬼は根のついた榊を持つて出てきます。
その後、榊を鉞に持ち替へてから改め役との問答になります。
問答の後の小休止を経て、ヘンベ踏みとなります。この動画では7分50秒あたりです。ヘンベは反閇(へんばい)です。大地を踏みしめて邪気を払ひます。
その後、榊鬼は小さい鉞に持ち替へて松明を払ひながら舞ひ、さらにセイト(焚き火)をはねてからひつこみます。
更に諸書に問答やその解説が載りますので適宜ご覧下さい。
ちなみに、問答の最後の榊引きで歌はれる旋律は、
例へば湯立て等、他でも用ゐられてゐます。
返閇
へんばい