超暗号
このエリアが大六天だと知ったのはもう何年も前
これは砧公園の中に移動されて作られた塚
この塚を使って儀式を行うと言うのが大六天信仰なのだろうか?
もともとはこの切り株の当たりいったいを含んだ土地が第六天の森と言われてて、
公園内の塚もこのあたりにあったみたいだ
わざわざ塚を作り直しておくほど恐れていると言うか、もしや今でも何かを?
そうだね。。。
その後に知ったのは
磯野
長谷川
これは同じ一族も敷くわ、同族で
この名前と我が家の名前が近くにいることを新潟で確認
用賀
このあたりはサザエさん商店街もあるのよね
今内のむすこっちが通ってるのも用賀だし
もともとうちの実家も用賀にも近い
大山道追分 〒158-0097, 3 Chome-14-8 Yoga, Setagaya, Tokyo 158-0097 - Google 検索
大山道は、江戸の赤坂を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て、二子の渡しで多摩川を渡り、溝口、長津田、厚木、そして伊勢原(大山)へと至り、さらには秦野、松田を経て、矢倉沢関所に続く脇街道です。今の国道246号線とほぼ同じルートです。
大山は、世田谷からも関東平野の先に望むことができ、生活に深く関わってきました。
江戸時代中期以降、江戸庶民の間で大山詣が一大ブームになると、夏山の季節、大山へ向かう街道は、大山詣の人々でにぎわい、大山までの経路は、大山を中心に放射状にのび、「大山道」「大山街道」の名で呼ばれました。このため、「大山道」と呼ばれる道は他にもあり、世田谷を通る道は「矢倉沢往還」のことをいいます。
大正14年に二子橋が竣工したことにより、二子の渡しはその長い歴史に幕を閉じました。
昭和2年に小田急電鉄が開通すると、大山詣は伊勢原駅が利用されるようになりました。
同年には玉電が二子橋を渡り、その後日中戦争が長期化して大山道の軍事上の重要性が大きくなってくると、昭和16年に二子橋に直結する新道もでき、神奈川県の大山道沿いにも軍事施設が拡大していきました。
戦後、東京オリンピックに向けて道路の拡幅が行われ、さらに自動車産業の発展に伴って自家用車やトラックが急増すると、玉電は「ジャマ電」と呼ばれるようになり、1969年(昭和44年)、首都高速道路3号線建設に伴い「バス路線新設」「新玉川線建設」を条件に廃止されました。
同年、新玉川線の第1期工事が着手。1971年(昭和46年)には、首都高速道路3号線が完成し、渋谷から用賀までの国道246号線の上を通るようになり、1977年(昭和52年)新玉川線(現在の東急田園都市線)の渋谷~二子玉川間が開通しました。
38 道5 大山道 通称ニーヨンロク玉川通り - 東京の坂と橋(駅員3) - カクヨム
渋谷から国道246号線を下っていくと、三軒茶屋で玉川通りと世田谷通りに分岐する歩道の上に見上げるような大きな石造りの道標がある。
高さ1.5mくらいはあるだろうか、『大山道』と記された大きな石柱の上に不動明王が乗ってり、高さは3m近くはあるだろうか。
国道246号線は、現代では通称『ニーヨンロク』と呼ばれているが、江戸時代は『矢倉沢往還』と呼ばれ、海沿いを行く東海道の脇街道だった。
この道は非常に歴史のある道で、律令時代の東海道の本道で『足柄道』とも呼ばれていた。
江戸城赤坂門を起点に
などを経て、沼津へと至る街道である。
途中に大山阿夫利神社があり、大山詣での人たちで大変にぎわったことから『大山道』、あるいは『大山街道』とも呼ばれた。
今の国道246号がほぼそのルートに一致する。
ここ三軒茶屋は、江戸時代に大山道(玉川通り)と登戸道(世田谷通り)の追分に、信楽、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことから付いた地名だといわれている。江戸時代の文化文政期にはこの呼び名が定着していたようだ。
世田谷通に少し入ったところに東急世田谷線の三軒茶屋駅がある。昔は、『246』を東進して渋谷まで走り抜けていた時代のことを知る人は少なくなった。世田谷線を走る車両たちも新世代へと移行し、渋谷⇔下高井戸間を走り抜けた記憶のある車両も今は既にいない。
三軒茶屋の名前の由来となった三軒の茶屋、『信楽(後の石橋楼)』、『角屋』、『田中屋』のうち、田中屋が商売を変えて現代に続いている。
残念ながら角屋は明治時代に廃業、石橋楼は1945年(昭和20年)まで営業が続けられたが、強制疎開の命令が下り閉店した。
田中屋は火災で焼失したものの、田中陶器店として昔と同じ場所で営業している。
現在の三軒茶屋の街は、とても下町の雰囲気を漂わせていて、多くの人でにぎわっている。
世田谷通りに面した商店街『すずらん通り』の入口には『喰うてかへんか?』と書かれた恵比寿様の絵柄の大きな看板が上がっていて、まるで大阪の繁華街にいるのかと思うような雰囲気が漂っている。
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それで思い出したんだけど
小学校に入学したばかりの頃
まだ入学したてなので、行きは6年生と
帰りは集団下校で、同じ方向の高学年とみんなで帰るのだけど
ある日何を考えたのか、その集団から外れて
一人で帰ろうとしたようで、
このときも私は
”アマノジャク” で
”かおりしゃんひとりでかえるもん”
そう思いながらこっそり集団から離れたんだ
途中の道とか全然覚えてないけど
3kmくらいの距離を一人で行ってしまい、
気がついたときには、
まったくどこだわからないところに来てしまったと気づいたところだったの
上の説明によれば、3軒のお茶屋さんは私が迷子になったときにはすでになくなっていたらしいのだけど
そのときもお茶屋さんのようなものが3件並んでて
そのうちの一軒のおばさんが声をかけてくれて
ランドセルに書いてある住所を見て
”あらあら、遠くから来ちゃったのね~~”って言われて、
それを聞いて泣き出してしまったのは覚えてる
人生2回目のパトカー保護
でも帰りのパトカーの中ではなぜか自信満々で
”かおりしゃんひとりでとおくまできちゃったの”
そんな気分で、おまわりさんにいろいろお話してたらしいけど
それは覚えてないんだけど
大山阿夫利神社へ続く道へ行っていたのねって
今武者震い
いろいろ調べてた途中で、いった見たいところになった場所なのだ
【M2.7】銚子付近 深さ49.8km 2017/04/25 10:26:34 http://bit.ly/2pc0xB2
千葉 白浜 高木 山家
【M3.1】房総半島南部 深さ65.3km 2017/04/25 00:23:12 (G)http://bit.ly/2pWGRkC (Y)http://bit.ly/2oDN4jE (アニメ)http://bit.ly/2p9XTvC
http://home.e02.itscom.net/tabi/nama/tizu1.html
由緒によると、『明和元年(1764)、銚子の海底より引き上げられた青石に奇怪のことあり。願いに応じて利益少なからず。住民、これを石尊と称し、鎮守となさんとす』とある。ということは御神体は石のようだ。
茅ヶ崎方面い話がいくと
あの神武の末裔だって言ってたおばちゃんを思い出すね
かぐや姫のじーさんはまったくちんちんかん
こういうじーさんが一番阿保丸出しでだめだわね
おばちゃんの話だけを聞きたい
ビ・ン・ゴ
皇統3代天日豊本黄人皇主神の御兄弟に
天支天夫利降尊(アメノイイダアフリコノミコト)という方がおられました。
実はこの方のお名前からアフリカといったのです。
しかり、皇統14代の天御中主神以前の歴史がわからなかったので、
神奈川県の有名な大山に祀られている阿夫利神社の祭神が不明でしたが、
この記録が出て初めて明らかになりました。
すなわち、
大山の祭神阿弗利加の国祖神なのです。
(神代の神代の話 皇祖皇太神宮刊)
用賀の大六天エリアには
タンザニアの大使館があったな。。。。。
ってことは、、
丹沢 タンザワ は
タンザニアだ。
おろろーーん。
その大六天を祭るのが
”榊” 神社だったりするのだ