デザイナー@謎の先行文明
マルタ共和国では
これまでに約30の巨石神殿が発見されており
そのうち6つの神殿が世界遺産に登録されている
最古の神殿は
紀元前4500年から前4100年頃のものとされており
エジプトのピラミッドよりも千数百年古い
そのためマルタは
地中海文明発祥の地と言われている
巨大な石灰岩を切り出して作られたこの巨石建造物は、世界最古の巨石神殿の一つだ。学者たちの見解ではマル タ島の巨石神殿群は紀元前3600年から前2500年の間に作られている。エジプト文明が始まったのは紀元前3000年。世界最古の文明といわれるシュ メールも紀元前3300年頃に突然ウルク期文化が現れて、壮大なレンガ作りの神殿が建てられるようになった。つまりマルタ諸島の巨石神殿群の一部が紀元前 3600年には建造されていたとすると、古代エジプト文明や古代シュメール文明よりも前の、先行文明が建造したことになる。だが、その先行文明がどんなも のであったかは不明であり、あまりにも謎が多く、何も解明されていない。そこで歴史の闇に放置されているのが現状だ。
マルタ
マンタ
マンデ
穴太衆(あのうしゅう)
戦国時代に大活躍した近江近郊の石積み職人の集団で、起源は穴、阿那(阿羅)から連想されるように朝鮮系の渡来人。
実際、比叡山系と琵琶湖に挟まれた南北約4-5キロ、東西約1キロの細長い大津市北郊地帯に築造された古墳は2千を超え、その殆どが6世紀中期から7世紀初頭にかけて、渡来人が築造したと推定される古墳時代後期の群集墳である。
横穴式古墳の石室が、用材として主に花崗岩を使用し、野ヅラ石の乱積みという構架法を用いている所に穴太衆の技法の祖形を見ることが出来ます。穴太衆は、これら横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫であり、長い間石積みの技法を温存していた。そして、その技法を活用する時が来た。
天台宗総本山の比叡山延暦寺は、大陸からの渡来人系である伝教大師最澄によって開創、延暦25年(806)公認された、平安時代に三山十六谷に渡って寺院を拡大、最盛期には三千の坊舎をもち、日本仏教のメッカたる地位を誇った。山の斜面を削って、平地として建設された石垣普請に比叡山麓に住み、石室づくりの技法を持つ穴太衆が動員された事は想像がつく。石垣だけでなく墓石、五輪塔も作った。
門前町として栄えた坂本には60を超える坊跡があるが、いずれも見事な石垣を見ることが出来る。一般民家にも垣間見る事が出来る。まさしく見本商品陳列場のようである。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで、信長は穴太衆石積みの存在を知り、天正4年(1576)正月に着工した安土城の築城に、穴太衆を動員したことになっている。
その後、天正11年の大坂城、天正14年の聚楽第、天正15年の方広寺大仏殿、文禄3年(1594)の伏見城の構築に加わった。古文書の「駒井日記」には穴太駿河、穴太三河、穴太出雲の三人が秀吉、秀次の城普請に参加したことが記されている。さらには、家康の江戸城大修築にも活躍した。信長†秀吉†家康と穴太衆の起用が受け継がれた。
関ヶ原の合戦を境に諸国で石垣を用いた近世的な城普請が一斉に開始された為、穴太衆はひっぱりダコになった。やがて坂本では幹部級の石垣師の育成や、石垣作りの伝授にあたり、養成所の役割を果たした。九つの系統に属して免許制にした。免許状を発行して、これがないと大名家への仕官も不可能というように官僚化してしまった。
城の石垣を築く時は、工事の秘密が漏れないように、幔幕を張って工事をしたのが習慣になった。穴太衆が加わった城は記録に残っているだけでも江戸、駿府、名古屋、二条、大坂、伊賀上野、篠山、広島、高知、熊本、金沢、彦根、日光東照宮など。徳川幕府の開府後は、その支配機構のもとに組織され統轄された。しかし天正、文禄、慶長と急速に発達した城郭建築も元和元年に発令された武家諸法度による一国一城令以来、急激に衰退の一途をたどり、近世城郭のほとんどを手がけた穴太衆も職を失い、出先の各藩に士着を余儀なくされた。
ちなみに天保13年(1842)の人別家業書上には、坂本に居る穴太衆は2人しか居ない事になっている。彼らは引屋(家屋を壊さずに引っ張って他の場所へ移転させる仕事)に転業したという。
岡山藩内の石工の変遷を見ると、
穴太衆→河内屋治兵衛→備前石工となるが技術的系譜としてはどのようになるのか
などと言ったことが話し合われた。
河内屋治兵衛は、江戸期に岡山で活躍した石工。和泉の国の生まれで、後に大坂に移った。津田永忠に見込まれ、岡山に厚遇で呼び寄せられた。和意谷の墓所、倉田新田・倉安川、閑谷学校の石塀なども手がけたと考えられる。1723年に大坂に帰るまで、57年間、岡山の土木事業に貢献した。
備前石工についてのウンチクを述べれば、
鞆の浦の淀姫波止、船番所波止、焚場を造ったのは、
備前石工の児島栄五郎であるし、
九州熊本を中心として、樋門や眼鏡橋を造ったのは、
備前石工の小坂勘五郎であるし、
函館の五稜郭や弁天台場を造ったのは、
備前石工の井上喜三郎であるし、
干拓・塩田の堤防や樋門、石橋、波止場・・・・
特に海洋土木に関して、全国各地に出向いて仕事をした
出職集団、備前石工の歴史は興味深い。
多くの備前石工が、
児島湾から全国に旅立ったことを思えば感慨深い。
備前石工の系譜を調べてみると・・・
津田永忠が招いた河内屋治兵衛の率いる
大坂の石工集団の系譜上に備前石工が育ったのか?
もともとあった備前石工の技術に
河内屋治兵衛が目を付けたのか?
河内屋治兵衛は、
岡山に住み着いたのか?大坂へ帰ったのか?
それとも備前の誰かが河内屋治兵衛という名を襲名したのか?
謎は深まるばかり。
ちなみに、大分別府の八幡朝見神社の参道にも、
瓢箪石と盃石があるという。
河内屋治兵衛をはじめとする大坂石工
日本のイノベーション・岡山のパイオニア1: 2007年公開講座講演集 - Google ブックス
http://yz-t.com/bunbun/icinomiya/kibituhiko/kibituhiko.html
岡山、吉備
吉備
カッパ ド キア
河内屋治兵衛の「ひょうたん石」
大坂和泉の石細工職人。池田光政が和意谷墓所造営のために岡山に呼び寄せた。
祖父輝政の亀趺や天禄辟邪を彫刻するためであろう。
腕の良い若い細工師がいると、熊沢蕃山とか儒官とかの推薦があったのかもしれないし、娘の嫁ぎ先一条家の出入り人かもしれない。
寛文6年(1666)頃のこと。
約60年後の享保8年(1723)に治兵衛は大坂に帰っているので、20歳代であろうか。
一度に何カ所も普請があるという理由で大坂の石工集団を呼び寄せているところから大坂でも棟梁的存在だったと思われ、30歳前後だったかもしれない。
石材の切り出し地犬島の石工とトラブルを起すなど、気も強い。
石細工に留まらない卓越した技量と統率力に、墓所造営の責任者であった津田永忠は惚れ込んでしまう。
以来、終生、永忠の片腕となる。岡山城下に屋敷が与えられ、帯刀も許された。
永忠の土木工事で、永忠のアイディアを実現させるには、
河内屋治兵衛は欠かせない存在だった。
治水事業(石の懸樋など)、
津田永忠の土木事業には、河内屋治兵衛が常に係わっていたと思われる。