弥助

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河内長野市キリシタンの遺跡

河内長野駅前のノバティー長野北館の前に、平成18年に新しい高野街道の案内板が集められて、まとめられました。その中に円柱の石碑があり、烏帽子形城に関しての、「キリシタン」の話が書かれています。


記念碑の文面では、フロイスと言う宣教師から、天正10年(1582年)2月15日長崎発信の、イタリアのイエズス会総長宛ての「天正9年度邪蘇会の日本年報」が送られています。その中に「烏帽子形(えぼしがた)」と言う、城下町の話が書かれています。


「この城(八尾)から、5レグワから6レグワの所に或る、烏帽子形と称する別の城(城下町)が在り、周辺を含めて、三人の領主が治めている。その内二人の領主が切支丹であり、ここには300人の切支丹が住んで居り、その為にここに、教会を建てることが決まり、木材やその他の用具を集めています。」


多分、当時は河内国に、新しい有力な拠点を造る予定があったのでしょう。


教会が建ったのかは不明ですが、烏帽子形城跡の北の尾根の端には、

小字名で「ヤソブ」と言う名前が残されているそうです。

天正9年には、宣教師ヴァリニャーニ巡察師が、アフリカ人を連れていて、

安土城織田信長に謁見しています。

安土城に向かう途中で「烏帽子形」を見たいと、河内長野に寄って居るので、

当時の河内長野の人は、アフリカ人を見た人がいたかもしれません。

その後、安土城下での布教をお願いして、彼を引き渡しました。

珍しがり屋の信長は、彼に「弥助」と言う名前を与えて従者としました。

本能寺の変では、主人の危機に対して勇敢に戦い、石田光秀に捕まりましたが、

日本人ではないとの事で許されています。

しかしその後の行方は不明だとの事です。